”Cool Head, but Warm Heart.”
(冷静な思考と温かい心)
Alfred Marshall, British economist
いきなりですが、経済学とは冷静と情熱の両方を兼ね添えた学問だと思います。
一般的に「冷たい」数字の羅列を取り扱う経済学ですが、あるとき、大学の授業中に引用されたマーシャル*の言葉が、今でも印象深く心に残っています。
*アルフレッド・マーシャル:イギリスの経済学者。アダム・スミスの「見えざる手」を需要・供給曲線で可視化した。経済学に数学を導入した人物ともいえる。(小さな政府を是とし、アメリカの共和党やイギリスの保守党に影響を与えている。)
人々を救うために、どうしたら最も効率的な経済施策が打てるか、「冷静な思考と温かい心」を持って考える。
あるときは困窮からの救済、あるときは過酷労働からの解放。
ゆえに、経済学は一度政策の域に踏み込むと、長い目で見れば戦争を指揮した指導者たちよりも人を殺め、もしくは救うことが可能だと常々思います。
だからこそ、経済学は常に発展されなくてはならない。
すべての経済学者が社会をより良くしたいと崇高な意思を持っているとは限らないが、彼らは、きっと愛する人の笑顔が見たいがため、経済学というツールを手に社会の発展を試みているのかもしれない。
閑話休題。
で、正直、マーシャルの意図した意味を理解するまで、経済学は冷たく、青々とした学問だと勝手に思ってました。
でもそこでやっと気づけたのは、経済学とは、先祖が情熱をもって発展させた思いやりのある学問であり、それゆえに人々の心を突き動かす冷静さも必要なのだということ。
三大経済思想の生みの親であるマルクス(#大きな政府)、ケインズ(#リベラリズム)、マーシャル(#小さな政府)は、異なった色眼鏡をかけて世界をみていた。
でも、これらの経済学者も共通して、冷静な思考と温かい心を以って理論を発展させてきたのだと思う。
本記事は、そんなツンデレな経済学のお話。
※ちなみに、記事タイトルは私の好きな小説、江國香織さんの『冷静と情熱のあいだ』をお借りいたしました。照
もくじ
1. 経世済民を経済と呼ぶ

経済とは漢語の「経世済民」を語源としており、国を治め、人民を救うことを意味します。
なので経済学とは、限りある資源をどう効率的、公平に分配し、国民の幸福を高めるか、理論と実証をもとに追求するのが経済学だと私は考えます。
安定した社会を築き、社会の構成員である国民全体の幸福度を高めることは、民主主義の機能性を高めるというデータもある。
「万人の幸福」を達するための手段として、ほとんどの国で「経済全体のパイを増やす、利潤を追求する、市場の効率化」を試みますが、最近よく問題視されているのは、この手段自体が目的にすり変わってて本末転倒じゃない?ってところだと思います。
でも、極めて難しいのは、生命学的に幸福というものに絶対値がないこと、つまり、全員に当てはまる値が存在しないことだと思う。
で、人というのは客観性を愛する故、万人が理解するのに用いられる「数字」が必要となります。
こうした背景から、もともと第二次世界大戦時の戦費調達用の統計値として開発された、GDPといった指標を「生活の質」や「幸福度」を示す代理の指標として用いられるようになりました。
戦後の国々はこうした数値を上げるために、あの手この手で努力を重ね、「経済成長(GDPの増加)=幸福の増加」という方程式が漠然と信じられるようになったのかな、と思います。
こうした世の中の風潮の中、ミクロ経済学の消費理論「限界効用逓減の法則」が生まれ、「あれ?収入や貯蓄の一定レベルを超えると幸福度は徐々に低下していくぞ」と判明したとともに、効率性から公平性へ人々の焦点が移っていったのかなと思います。
限界効用逓減の法則 : 人間が追加的に感じる満足度は少しづつ減っていく傾向のこと。マーシャルが19世紀に発見した。
2. 右側の経済学 VS 左側の経済学

で、人々が公平性を渇望する流れの中、火に油を注ぐように経済学者ピケティが発表したのが『21世紀の資本』。
資本主義経済の下では、長期的に「r(資本収益率)>g(経済成長率)」が成立し、付加価値の分配を市場機能のみに委ねたら確実に経済や教育、健康格差は拡大していっちゃうよ~といった内容です。
これは経済だけの問題でなく、政治にも重要な意味を持ちます。一般的に裕福なほど選挙で大きな影響力を持てるため、トップ層への富の集中は民主主義の根底を揺らがしてしまう。
マルクス主義が否定され、世の中が効率重視の「右側の経済学」に傾いている中、彼の異色の研究により、経済思想が揺れてきます。
*右側の経済学:「効率を公平に優先させる」、つまり供給サイドが経済規模を決める。また、基本的に、低所得者の生活向上は経済全体が成長してその結果、恩恵が低所得者にも及ぶ(=トリクルダウン理論)と考える。その限りでは、所得分配の不平等はある程度甘受されるべきと考えます。
ちなみに、現実の世界で「経済学」といえば、大学の経済学部でも学会でも経済界でも圧倒的に「右側の経済学」が優位(少なくともリーマンショックまでは)だそうです。
というのも、いま権威を得たエコノミストたちの大半は「右側の経済学」を学んできたためです。よって、現実に提案・選択される経済政策はほとんど、右側の経済学に依拠したものになっているとのこと。
参考:『ちょっと気になる政策思想―社会保障と関わる経済学の系譜』権丈善一(私が慶應義塾大学に在籍していたときお世話になった先生で、この上なく尊敬しております。)
逆に、「左側の経済学」は、合成の誤謬、「正しいこと+正しいこと=間違った結果」と考える。何かの問題解決にあたり、各人が正しいとされる行動をとっても、全員が同じ行動を実行したことによって想定と逆の結果を招いてしまうことが挙げられます。
ちなみに、私は右側の経済学も左側の経済学も否定しないし、学問という名の下であれば、対立や試行錯誤を繰り返すべきだと思う。
問題は、経済学というツールが政策の域を超えたとき、冷静と情熱を兼ね備え、民意に寄り添ったものであるかというところだと思う。大抵、政策の良し悪しという評価は、民主主義の旗のもと行われるのであろうから。
3. 冷静と情熱をバランスする天秤

何事も、「情熱さえあれば良い(温かい心)」というものではなく、物事を着実に把握する「冷静さ(冷静な思考)」も兼ね備えることは必要ですよね。
何度か前述している「冷静さ」と「情熱」を経済学的にいうと、「効率性」と「公平性」になります。
なので私は経済学で物事を考えるとき、天秤を思い描きます。
その天秤には冷静という効率性の青い砂、情熱という公平性の赤い砂が乗っていて、時代によって青い砂と赤い砂の重さは変化する。で、この重さの変化は民意と連携する。
例えば、まだ戦争があった日本では、じゃんじゃん経済成長させて豊かになろう、まずはGDP上げてこう!という具合に、天秤を例にいうと右にある青い砂:「効率性」が重視されていました。ちなみにこれは、「右の経済学」の考え方でもあります。
反対に、いやいや経済成長なんかよりもっと大切なものがあるでしょう!と、社会が公平さを強く願うようになれば、左にある赤い砂:「公平性」が重くなっていく。
しかし、経済学の何が素敵かって、この「効率性」についてしっかり議論していることなのではないでしょうか。
例えば、法律の世界では「法の下の平等」という観点が重視され、法の下では誰もが平等に扱われなければならない。「公平性」のほうが「効率性」よりもはるかに重要な概念となっています。
だからこそ経済学が特有にもつ「冷たさ(効率性)」だけが目立ち、経済学が「温かさ(公平性)」も重視していることは忘れられやすいのかもしれない。
4. 効率性と公平性とは

天秤にのっている効率性と公平性を「どのようにバランスさせるか」という問題意識をもち、社会の様々な問題に立ち向かうのが経済学の特徴な訳ですが、そもそも効率性と公平性って何なのでしょうか?
効率性
欲は無限、財は有限の世界で、経済学は限られた資源をどう無駄なく、効率よく活用し、人々の生活水準(幸福)を高めていく観点。
効率性は理屈だけで処理できる。例えば、市場の調整メカニズム、つまり、価格と市場の役割を重視する側面。
公平性
社会で生産された富が、人々の間でどこまで平等に配分されているかチェックし、不平等であれば是正しようというという観点。公平性は人々の価値判断がからむので、ジャッジが難しい。
二律背反の効率性と公平性
経済学の世界では伝統的に、「個人は自分の利益を中心に考えて行動する」と仮定していました。
しかしゲーム理論の発展に伴って、「実は人って、他者の利益や行動も考慮するっぽいぞ?」と考えられるようになりました。
はるか昔から、不平等を是正しようとする動きは世界中で拡がりつつありますが、最近の脳科学の研究で、平等な社会を望ましいと受けとめる仕組みが私たちの脳にあることがわかってきたそうです。
脳科学や行動経済学ではこうした考えを「不平等回避*」とよび、公平性の追求は生物学的な根拠に基づくことになります。
*不平等回避:「不平等な状態を好まない」という個人の選好。行動経済学と呼ばれる分野で発達した概念。
なので、自分の所得がある程度成長することを前提とすれば、格差を縮小するために所得の伸びを多少犠牲にしても良いと考える傾向があるそうです。
じゃあ、公平性だけを追求して、人々が完全に平等で金持ちも貧乏人もいない社会がいいのか?
否。ソ連の社会主義体制などはその失敗例だと思います。
このように、効率性と公平性にトレード・オフ*の関係があることが多いとしている。
*トレードオフ:何かを達成するためには何かを犠牲にしなければならない関係のこと。
これを理論的・実証的に明らかにし、効率性と公平性のバランスをめぐる議論に重要な材料を提供することが経済学の強み。
格差問題の解消とトリクルダウン*のいずれを優先すべきか?人間が持つ、集団のヒエラルキー志向と公平性志向、いずれが強いか?
こうした議論は経済学のみならず、科学分野との融合も必要となってきています。
*トリクルダウン:「富裕者がさらに富裕になると、経済活動が活発化することで低所得の貧困者にも富が浸透し、利益が再分配される」と主張する経済理論。 この理論は開発途上国が経済発展する過程では効果があっても、先進国では中間層を中心とした一般大衆の消費による経済市場規模が大きいので、経済成長にはさほど有効ではなく、むしろ社会格差の拡大を招くだけという批判的見方もある。(抜粋:https://www.nomura.co.jp/terms/japan/to/A02278.html)
実際に、幸福経済学や行動経済学などはこうした融合分野のうちの一つで、ハーバード大学やオランダのエラスムス大学など至る所で盛んに研究が行われています。
「不平等な社会より平等な社会のほうが望ましい。豊かさは一部の人々だけでなく、多くの人々が共有したほうがよい。」
そうした世の中をどうすれば実現できるか、といったことを冷静な理論と分析に基づいて、経済学はつねに考えているのではないだろうか。
5. 最後に

経済学は政治のしもべ、
政治は経済学者の陣取りゲーム。
権丈善一『ちょっと気になる政策思想―社会保障と関わる経済学の系譜』(勁草書房) Tweet
経済学者は現実を分析し、理論を組み立て、議論を進ませるための材料をつくる。
しかし、材料を提供したらそこで役目は基本的に終わり。肝心の実践フェーズは政治家である。
こういった意味で、経済は政治と表裏一体なのであり、どちらか一方が栄えればいいというものではないと思う。
経済学の根の深くでは、倫理学や哲学が複雑に絡み合い、いくら分析が科学的になったとしても、科学では決して扱わない価値判断が伴う。
で、その価値判断を人が放棄したとき、民主主義も崩れ去るのではないだろうか。
私は大学時代、「商い」のあれこれを学ぶ商学部に所属し、恥ずかしい話、経済学への関心は薄かった。
そんな私に色眼鏡の存在、合理的無知に気づかせて下さり、私の0を1に変えてくださった権丈先生、本当にありがとうございます。
また、正義とは何なのか一緒に議論してくれて、世界に対し私がもつ色眼鏡を今も揺らし続けてくれる、ラブラドライトの瞳の君も、心からありがとう。
参考文献
● 権丈善一『ちょっと気になる政策思想―社会保障と関わる経済学の系譜』(勁草書房)2017年
● “Trends in Income Inequality and Its Impact on Economic Growth” 2014年12月OECD
● “The Business Case for Saving Democracy” Rebecca Henderson
● “Capital in the 21st Century” Toma Piketti
● 沼 宏一『幸せのための経済学――効率と衡平の考え方 』岩波ジュニア新書 、2011年
●ハーバード・ビジネス・レビュー編集部『幸福学』ハーバード・ビジネス・レビュー 、2018年
●ブルーノ・S・フライ(著)、白石小百合(翻訳)『幸福度をはかる経済学 』、2012年